記憶に残る旅立ち

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 21歳の春、関西国際空港からカナダ(バンクーバー)行きのチケットを持って私は、旅だった。

 1年間の大学休学。小学校の先生になるために、教員免許が取得可能な大学を目指し、浪人までさせてもらった。私なりに迷い、考え、大学に2年間だけ行ってので休学。今思えば、私の決断以上に両親の寛容さを尊敬する。

 行き先がカナダになった理由は、大学2年生の夏休みに出会ったアジア縦断旅行の道中、マレーシアの小さな島で出会った、京都大学出身の晴さん。彼のワーキングホリデー話に心を躍らせ、憧れ、その時初めて自分の選択肢の中に、休学してワーキングホリデーでカナダに行く。が入ってきた。

 熱しやすい私は、1か月ほどの旅行から帰国すると、毎日休学やワーキングホリデーのことを考えて過ごし、計画を進めた。それでもそんな熱しやす私も、両親へ話をするまでには、かなりの時間がかかった。

「浪人までさせてもらったのに。」「また周りから遅れる。」「英語もそんなにできないのに。」「単純に、やりたいけど不安もある。」など、様々な思いがあった。それでも、思いを伝えた時、両親は賛成してくれた。行くとなったら、すぐ行きたい私は、準備資金も十分に用意せず、仕送りを前借という暴挙で予算を確保して、親のすねをかじりまくった船出となった。

 正直、出発までの準備は、大変だったはずだが、よく覚えていない。覚えていることは、1年オープンのカナダ~日本往復チケットが15万円ぐらいしたこと。海外保険が想像以上に高かったこと。(それでも、旅行中の2度の強盗被害申請で儲かってしまったぐらい。保証はすごい。)ファームステイ(WWOOF)との出会いで、最初の滞在先が労働との交換で無料だったこと。ぐらいだ。

 しかし、どうしても忘れられないことがある。それは、初めての一人旅(中学2年の春・九州)の時もそうであったように、父、母、姉が私を見送りに来てくれたこと。九州の時は夜行列車の出発駅に。カナダでは、空港に。出発前の私の様子をビデオで撮影する父は、ずっと笑っていた。直前にビビり、「何か行きたくなくなってきた…。」的な発言をする私に、「今からでも変わりたい。わしが行きたい。」と即答していた。母は、出発直前泣き出した。心の中では、「やめてくれ!こっちが泣きそうだったのに、泣けなくなった。」無理して笑おうとして、泣きたくて、切なかった。

 ゲートを越えてから一人泣いた。今でも忘れられない。あの瞬間。本気でゲートの向こうにもどりたかった。それでも、もう戻れない。自分が決めたこと。覚悟を決めて飛行機に乗り込んだ。父の言葉も、母の姿も、どちらも愛。今ならそう言い切れる。そんな記憶に残る出発の話。

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